星が落ちた駅で手を振ります

「さようならを」
停車駅で扉は開かなかった。
「さようならがねぇと、降りられない」
読んでいた本から顔を上げた青年は親切そうには見えなかった。ルフィのまわりには自然と世話焼きが集まる。皆、行く道を遮らない程度にあれこれと心配してくれる。彼はそういうのとは違うと思った。眉間にシワが寄っているし唇だって尖っている。ルフィと違って電車が走っている間も寝ていないのだろう。隈が濃いやつはたいてい不機嫌だ。だというのに、話がしたいと思った。たった今会ったばかりで、さようならはないだろう。
「じゃあ、まだいいや。次の駅でも構わねェし」
真っ黒な髪が揺れていた。どこか窓が開いているなら最悪飛び降りればいい。視界にいつもいる前髪とも、兄の燃えるような髪の黒とも違った。ロビンの、インクをこぼしたような長い髪とも。例えるなら、蛍光灯を反射する車窓の向こう、深海にも見える星空。星がずっとずっと吸い込まれて遠のいていくような、底のない色だと思った。
「そういうわけにはいかねェ。ずっとは乗っていられないからな」
照らされることもなく輝く月の目玉だ。両耳で星が瞬くみたいなピアスが音を立てて、ひとりで宇宙みたいな奴だと思った。
「お前は?降りねェのか?」
「おれはまだ。さようならを言いたい奴を待っているから」
「じゃあおれも待つ!」
隣にどっかと腰かけたつもりだった。不思議座席はなんでだか人ひとり分あけてルフィの尻を落ち着かせた。おかしい。とんがっていた唇の端がふふと上を向くのがわかった。三日月みたいな横顔。
「お前の仲間はもう降りたぞ」
「えっ、そうなのか!じゃあおれも降りねェと!」
胸がそわそわした。まだ乗っていたい。なのに降りなければと急き立てられている。右と左で分かれたらだめだろうか。不思議電車なくらいだから、もしかしたら不思議分身ができるかもしれない。
ジリリリリとベルが鳴る。青年が顎で扉の方を促すのにつられて足が動く。右手だけつり革に残すとそれはびよんと伸びて、だけど彼を掴むことはできない。さようならを言いたくない。
「降りるべき駅で降りた方が身のためだ。さようならを」
唇を噛んだ。別れを望む顔は優しい。
「いやだ。さよならしたくねェ」
「海賊王サマはわがままだな」
当たり前だろう。誰よりも自由なのが海賊王なのだから。だけど自由とわがままは別のものだと教わった気がする。誰に?
「わがまま言いてェときだって、ある!」
「理解はするが、今じゃねェな」
じゃあいつだと言うのだろう。発車を知らせる音がけたたましく鳴っている。じいちゃんに追いかけられるときの圧に似た、大きななにかが迫っているのがわかる。彼はいつかその時は来る、と言った。ここぞ、というのは、腑に落ちるように、ハマるように、「来る」ものだとルフィはもう知っている。そうだとわかる程までに、長い道のりを旅してきた。もうあまり、通りすぎた駅のことは思い出せないけれど。
「いつか来るんだな」
右手は戻した。
「いつかな。それまで」
「さよならだ」
「さようなら」
ベルが叫び続ける中、扉は開いた。湿った夜が勢いよく入り込む。吹き付けるそれをかき分けるようにして踏み出した。ちらりと振り返れば、彼は開いたページを押さえながら見送ってくれていた。吹き飛んでしまいそうな手を無理矢理振った。またな、宇宙!
間もなく発車します。
自動で閉まる扉に背中を押される。そこに駅はなかった。踏みしめ損ねた足がずんと落ちる。
駅がねェぞ!トラ男!
不思議駅だと叫んだ声は出ていなかった。前にナミに連れていかれた、高所から落ちるアトラクションだ。ふわりと尻が浮く心地は一瞬で、すぐに重力がルフィの体を地面に叩きつける。どっと背中のリュックがのし掛かる。
「おい、大丈夫かルフィ!」
ウソップが人混みに流されまいと踏ん張っている。発車のベルとともに、車内になだれ込む人、人、人。うかつにもど真ん中でへしゃげてしまったルフィを避けるでもなく無理矢理乗り込んでいく。やっぱりもっと早く起きるべきだった。この電車に戻されたら朝練に間に合わない。人と人に挟まれたリュックが乗車に巻き込まれる。打ち付けた鼻をさすりながら流れに逆らって右手でつかんだものは。
「おい」
読んでいた文庫本を引っ張られた不機嫌な顔。ルフィより少し背の高いところに、沈まない朝の月がふたつ。今だ。確信が生まれる。
「さよならは全部できたか?降りるだろ?お前」
「なんっ……だ、てめ!」
同じようなリュックの背中ごと引っ張り出す。怒った顔は宇宙なんかじゃなかった。どこの学校だろう。部活は?何年生だ?彼についてなにも知らない。なぜかわからないけど、無性に話がしたかった。それには、なによりも、まず。
「おれはモンキー・D・ルフィ!はじめまして、コンニチワだ!」
呆気に取られた目がまんまるになって、ルフィはしししと笑った。青くなったり緑色になったり忙しいウソップがブルブル震えている。ベルは鳴り止んでいた。朝日を浴びた車体がすべり出す。明るいホームで夜色の髪を揺らした彼は思いきり顔をしかめたのに、電車を振り返らなかった。
「おれと友達になってくれ!」
右手は握手の形にした。もう手は振らない。さようならは必要ないから。
文庫本の黄色いカバーに、縮めて呼びたくなるような名前が書かれていた。おそろいのDを真ん中に置いて。