夏「夏休み」
なんとしても果たさなくてはという強い使命感に動かされ、知らない電車を乗り継ぎ、目的の店が入るビルへ。開店前にたどり着きたい。本当に、そこまで早く行かなくてはならないものだろうか。沈めてもふと浮かんでくる疑問に「売り切れるから開店前に並んでほしい」と言った息子の顔で重しをする。自分が興味を持っていないだけで、好きな人間がごまんといるというのだ。たとえば、そう、あの学校医のように。
かくしてスモーカーは到着した。正確に言えばできてはいない。「海の戦士ソラ限定ストア」と書かれた場所へ入るには、警備員が次々と人間を詰め込んではコーンで仕切っていくその行列に潜入する必要がある。スモーカーは額を流れる汗を拭いながら目を走らせて喫煙所を探した。燃料が必要だ。だが土地勘がない。ホテルで飲んだ珈琲の香りがかすかに残るだけのため息。「父さん、おねがい」この体を奮い立たせる声を思い起こす。よし。スモーカーは一歩足を踏み出した。
嵐のような時間のあとでは状況が飲み込めていなかった。久しぶりの煙をたっぷり肺に入れると安堵と疲れで目が回る。喫煙室のガラス扉には、はみ出した黒い髪が見えていた。スモーカーをここへ案内した男だ。この春、息子とともに小学校を卒業していった学校医。式のあと親子で挨拶をして、以来もう会うことはないだろうと思っていた。今、外で待っているロー先生がいなければ、使命を果たすことは叶わなかった。
普段ならもう一口吸えるところを灰皿に押し入れ、スモーカーは驚かせないように扉を開けた。壁にもたれていた学校医が「好き嫌いあるか?」と顔を上げる。首を横に振ってみせればすぐさま歩き出した。夏休みシーズンの人混みをするすると抜けていく細身を見失わないように追いかける。スモーカーが持っているのと同じロゴの入った大きな袋が長い足にまとわりついている。さっき、この男でさえ抜けられないほど混雑した店内に入れたのは、開店から四十分もすぎた頃だった。スマートフォンに写真つきでメモしたグッズを表示させたものの、どちらを向いても人だかりで棚になにが並んでいるのかすら見えなかった。こんなにもか。大きな体は狭い通路ではとても邪魔で、迷惑そうな顔をした人がつぶれながら脇を無理矢理通ってゆく。想像以上の事態によくない汗が噴き出したとき、スモーカーの腕を「こっち」と引っ張る者があった。画面をひょいと覗いた黒髪が人と人の間に手を伸ばしてすいっと取ってきたものは、息子のリクエストのひとつ。拝むような気持で礼を述べたスモーカーを振り返った顔が、この男だった。あのステルスブラックを提げていた。
夢中でついて行けば、いつの間にか飲食店の椅子に座っていた。黄色のテーブルを挟んだ向かいに学校医も腰を下ろしている。真ん中にシロクマのキャラクターが描かれた絵本があり、よく見れば両隣のテーブルにも壁紙にも天井にも同じキャラクターがいる。スモーカーが目を泳がせている間に、ロー先生は絵本のように見えたメニューを開いて手早く注文を済ませてしまった。
「喫煙所から一番近い店なんだ。ソラのコラボカフェは予約制だからな」
コラボ? 聞きなれない言葉に首を傾げたが、そんなことよりと気を取り直してスモーカーは頭を下げた。
「世話になった。おかげでほしいものが買えた。まさか、あんなに人がいるとは思っていなかった。先生もこのためにわざわざ?」
「おれ、地元なんだ」
スモーカーは学会への出張で、たまたま同じ地で開かれたストアには息子の頼みで訪れていた。先生が迷わず歩いていたのはそういうわけだったのか。またひとつ知ってしまったと思うと、妙なうしろめたさに襲われる。
「内緒だって言っていただろう。その、いいのか、おれと一緒で」
他の保護者に見られるといろいろ面倒だとは、いつかの冬に聞いた言葉だ。春に会ったファミレスでも。なのに丸く見開かれた目が眩しい。おそらく、そんなことは忘れているのだ。まつ毛が上を向くと、照明を反射して輝く眼球。こんなにも近くで。スモーカーが見入っていると、それはすぐにぎゅっと弧を描いた。
「前のは、そういう意味じゃなかったんだけどな。子どもの方が賢いじゃねェか」
心底おかしいといった様子で学校医は笑った。
「あいつはわかっていたから、ちゃんと本屋の紙袋に入れてハンカチ返しにきたんだぜ」
そうと種が明かされてしまえば、ただただ自分が恥ずかしいばかりだった。大人なのに海の戦士ソラが好きなこと。熱心にグッズを集めていること。単にそれを黙っていてほしかったというのだ、この男は。息子も正しくそれを受け止め、内緒のハンカチをふたりでやり取りしたらしい。スモーカーは目元を覆った。
「それに、おれはもう先生じゃねぇし」
「いまはどこの学校に?」
「どこにも行ってねぇ。元々産休のピンチヒッターでな。前の校長が縁のある人なんだが、おれがちょうど休職中だったから。頼まれてずるずる勤めちまったと思ってたけど、あいつと一緒に卒業できたのはよかったよ」
いつかの満月を思い出す顔だった。自分も親がいなくて大変だったからと、ずっと息子のことを気にかけてくれていた。泣きながら笑っていたわが子は、先生の肩を越すくらいまで大きくなって卒業した。元気そうで安心したと、ロー先生は息子のリクエストが詰まった袋を見て言った。
テーブルに運ばれてきたのはキャラクターのクッキーが乗ったパフェと、シロクマの顔の形をしたかき氷だった。どっちがいいと聞かれてスモーカーが唸っている間に、男は慣れた様子で写真を撮る。返事をする前にかき氷を差し出された。
「先生はこのクマも好きなのか」
「実は白くてでかいものが昔から好きなんだ。そっちはどこから崩していいのか迷うから、やる」
クッキーを端に寄せて生クリームを頬張った元学校医は、スモーカーが遠慮なくスプーンを突き立てる瞬間、目を逸らした。見ていられないほどなら頼まなければいいと言ってやれば「オタクは複雑なんだよ」と口を曲げた。シロクマだけでなく、ペンギンやシャチなど海の生き物をデフォルメしたクッキーを避けながらパフェを崩していく様はおかしいやら気の毒やら。気を利かせたつもりで「食べようか」と申し出たら、ロー先生は難しい顔をして考え込み、「おれが食べる」と神妙にスプーンを握り直した。あっという間にかき氷を平らげたスモーカーは、悩みながらクッキーを食べる男を見守った。喫煙所では待たせた側であったし、時間がすぎるのは少しも気にならなかった。
「これ、おれからって渡してくれ。がんばれって」
せっかく冷やされた体があっという間に汗ばんだ店先で、息子にお土産だとソラのロゴが入った包みを渡された。小さなそれを落とさぬようにと慌てて受け取る。「じゃあ」と言われる前に、スモーカーは口を開いていた。
「おれはもう一泊するんだが、明日まだ先生がこっちにいるなら、行かねぇか、ソラのカフェなんか」
「予約制だって言ったろ。もう売り切れてる。コラボカフェは人気なんだ。それに明日は先約があるから」
悪い、と言われるとなにも返せない。なくなってしまったそのうち会える機会を、自分の手で作りたかった。肩を落としたスモーカーの前に、スマートフォンが差し出される。
「引っ越したわけじゃねぇから、あっちに帰ったら連絡する。実はあの辺にもあるんだ、ベポの店」
揶揄われているのでも面白がられているのでも、なんでもよかった。端末を滑り落としそうになる手で連絡先を交換した。「ついでにやるよ」とシロクマのキーホルダーをスモーカーの手に握らせながら、ロー先生は声を潜めた。
「ベポが好きなのも、内緒にしておいてくれ」
恥ずかしいからと、ちっとも恥ずかしくなさそうな顔で言ってのけた男はするりと離れて「またな」と人ごみに消えてしまった。見知らぬ土地にひとりになると、途端に口寂しくなる。今日はあまりに吸えていない。教えられた喫煙所へ戻ろうと地図を見て、このスマートフォンに先生の名が表示される日を想像する。会うたびに内緒が増える男は次になにを明かしてくれるだろうか。戻る道すがら滲んだ汗が服に沁みるのも夏らしいと思えるほどには。