春「春野菜」
あんな顔もするのか。
少なからずそれに衝撃を受けている自分に驚愕した。思わず飲み込んだパスタの唐辛子が喉に引っ掛かって、慌てて水を流し込む羽目になった。「あんな顔もするのか」とはこの場合「そんな表情は見たことがない」であり、「自分も見てみたい」と同義であることをすぐに自覚してしまったからだ。
「父さん?」
口の中で咳き込んだのスモーカーを、向かいでボロネーゼを食べていた息子が心配そうにのぞき込む。なんでもないと手を振って、また水を飲んだ。
春休み、新学期の買い物ついでに寄ったファミリーレストランだった。息子は成長期にさしかかり、靴も服もあっという間に小さくなるので頻繁に買い替えるようになっていた。好みの色やデザインを自分で選ぶようになったため、スモーカーが量販店で目についたものを購入するのでは難しくなり、二人で連れだって出かけることが増えていた。顔立ちや髪色は別れた母親に似ていたが、体格は父親譲りかぐんぐん背が伸び、さらに同級生より肩幅が広くなりかけていた。自分もこうだったかと、スモーカーはアルバムをめくってみて、久しぶりに亡くなった両親の顔を見た。懐かしくなって埃を被ったアルバムを散らかしていたら、休みだからと息子が手伝ってくれて、ついでに本棚の整理もした。
スモーカーは季節のおすすめに載っていた菜の花とホタルイカのアーリオオーリオ、息子はボロネーゼを注文した。どちらも大盛で。成長期にさしかかり、そんな量では足りなくなってきたのでピザも二枚、サラダに焼いたチキンにと、たったふたりなのにテーブルの上は満員だ。体が大きくなって、自分を呼ぶ声から「お」が取れたのに、ボロネーゼを頬張る顔はまだまだ幼く、スモーカーは微笑ましい気持ちでサラダを取り皿に入れてやった。フォークを動かす息子が、今日発売なんだと買ったフィギュアと、同じ戦隊デザインのボディバッグを提げた大人がドリンクバーに立っているのが目に入ったのはたまたまだ。子どもの好きなものには自然と目がいく。一見スポーツブランドに見えるが、海の戦士ソラだとわかってしまった。青の弐、悪役ジェルマのデンゲキブルー。トレンチコートを着たその男がドリンクを手に戻ったテーブルには、わが子の学校医、ロー先生が座っていた。皿に残った最後のチキンが攫われていくのを視界の端にとらえながら、スモーカーはそこから目が離せなくなってしまった。歩き疲れて空腹だった息子が集中して食べているのをいいことに盗み見た光景の中で、学校医はボディバッグの男と親し気に会話しながら時に巻いた麺を口に運んだ。絡まった緑色にぼんやりと、同じ皿だなと思った。
スモーカーたちより先に入っていたのだろう。食べ終わった皿を早々に端に重ねて置いた二人はなにやら顔を近づけて話し、椅子に置いた荷物をごそごそとやった。一緒に買い物でもしたのだろうか。そして唐突に学校医の表情は崩れた。ぱっと開いた金の目と上がった両眉が、ずいぶんと幼い顔にさせている。いつかの冬休みに見た、おもしろがって吊り上がった片頬、保健室に通っていた時期の、息子に向けて穏やかに弧を描く口元、そのどちらでもない。
「あれ?父さんもうお腹いっぱい?」
「いや……そうじゃねェ」
サラダ全部食べるね、と手を伸ばした息子に慌てて意識を戻す。手を止めた自分と違って、ほとんど空になっていた。スモーカーはフォークを一旦置いてピザを取る。一口で放り込むと生ハムの塩気が染みた。一度に入れると喉に詰まるよ、と息子に顔をしかめられ、ひとまわり小さくなったような気分で咀嚼する。食事がひと段落した子がもう夕飯のメニューについて喋るのがありがたく、相槌を打つことに集中した。
「先生!」
せっかくそうして意識を逸らしたのに、テーブルの横を通った二人連れに息子が声を上げる。さっきは流し込んだ水を今度は噴いてしまってスモーカーは慌てた。傾いた手元から、冷たさが大腿に広がる。会計に行くには親子の横を通らねばならないと理解していなかったあたり、よほど呆然としていたのだと突き付けられる。
学校医は立ち止まってゆっくりと振り返り、目を何度か瞬かせた。その月色を引き立てる、黒の参、ステルスブラックデザインのボディバッグ。
「父さんなにやってんだよ! 先生すみません、こんにちは」
「ああ、こんにちは。お父さんと買い物?」
わずかな焦りが顔に出たように見えたのは気のせいだろうか。すぐに学校と同じ表情になって息子に挨拶を返す男は心もとなさげにバッグのベルトを引っ張り、荷物を入れる部分を背中にまわした。白衣を思い起こさせる襟のついた白いシャツが片方によれる。長い足はブラックデニム。チャコールグレーのローファーが洒落ていた。パーカーも似合っていたがシャツも映えるな、などと。遠目で見れば、仕事着とそう変わらないように思えるのに、まとう空気がプライベートだとわかる。声をかけられたくなかったかもしれない。息子を制したが、彼は構わないと。隣にフィギュアを置いていた子はバッグに気づいていて、先生も好きなの、と嬉しそうに笑った。
「おれも好きなんだ、実は」
大人だけどな、と目を細めた男の腕を、連れだっていた者が引く。覆いかぶさるような影で大柄だとわかった。
「知り合いか? トラファルガー」
「うちの生徒と保護者だ。じゃあまたな」
「先生また!」
スモーカーは備え付けの紙ナプキンを取るばかりで、一言も発することができなかった。学校医はよそ行きの顔で別れの挨拶を口にして、デンゲキブルーと去っていく。そいつの髪型も背格好も、履いていた靴も目に入らず、色違いのバッグだけが焼き付いた。随分と距離が近かったな、などと。遠くで出口のベルが鳴る。テーブルの上、学校医とデンゲキブルーの額が、当たりそうなほどだった。いつかの冬休み以降、参観日に会釈するくらいで、ほとんど会うことのなかった男だ。なぜこんなに動揺しているのかわからない。
零したのが水でまだよかったと、追加の紙を取ってくれる息子は呆れていた。受け取って、濡れた服を叩く。ほんの少し私生活を垣間見ただけの学校医だ。知らない面がいくつあったって不思議ではない。そう言い聞かせ、納得する。当たり前のことであるのに、ばくばくと心臓が。落ち着けようと深く息を吸うと、動悸と同じ速さでトントンと靴音が戻ってきた。
「あれ、先生どうかしましたか?」
「これ」
息子の声にかぶせて差し出されたのはタオルハンカチ。黒地の角に刺繍で参。下を向いていた顔を急に上げると後ろ首がこきりと鳴る。学校医が紙を握っていたスモーカーの手を取ってハンカチを押し付けた。パイル地の感触が紙ナプキンの隙間から。
「ブラックのグッズだよ先生、いいの?」
「普段使ってるやつだから構わねェ。また学校で返してくれ」
「ありがとうございます。ほら父さん、お礼!」
勢いに押されて、「すまん、助かる」とかなんとか、ようやく出た声はあまりに小さく。その様をくつくつと笑われる。悪いと思ったのか、学校医は口元を手で隠しながら、
「みんなには、内緒な」
と、前にも言った台詞を、また。どういう意味かとますます混乱させられる。「わかりました」と息子が楽し気に返していた。堪えきれないとばかりにとうとう噴き出した学校医は、去り際さらに「菜の花、美味かったな」と重ねた。
男が去ったあと、お礼ぐらいちゃんと言いなよと怒る息子に平謝りした。ずいぶんしっかりしたものだなと感心しながら、濡れた紙を集める手際を眺めた。スモーカーの手には、握らされたままのステルスブラック。あの長い指をいつも拭いているというその柔らかさで、大腿の湿り気を拭く気にはなれそうもなかった。