冬「年末」
街中で見ると、まったくそこら辺の若者だった。自校の生徒の中にいたって違和感のないような。明らかに「まずいところを見られてしまった」といった風の表情に、耳にぶら下がった二連のピアス、袖の捲れた上腕の刺青が、普段のイメージとは遠くて。だがトドメの台詞はいつかのスモーカーにかけられたのと同じ。
「ほかの保護者には、内緒な」
人ごみの中を歩くとき、聞き慣れた声が傍にないと、この世に自分だけになったような気になることがあるのだと知ったのは去年だ。今日は小さな手を繋ぐ必要もないから、両手はエコバッグで埋めてしまった。その袋はいつも「環境にやさしく」と学校で習ってきたことを得意げにスモーカーに言いつける息子の気に入りの柄だ。なんとか戦士のソラだかウミだか。「ひとり」に不慣れになるなんて若い頃の自分は想像したこともなかった。無理にでも職場に居残りたかったが、年の瀬ともなればさすが警備員の表情も険しく、荷物をまとめて引き上げざるを得なかった。
やることもないので、普段ほったらかしている部屋の掃除でもと思ったが、積もった埃や隅の黒ずみ、こびりついた油を取るにはそれ相応の道具が必要らしかった。あれこれ買いに出かけ、商店街の賑わいに疲れて、一休みと自販機に寄りかかり、さてどうやって煙草を取り出すかと思案していると、その角から続く路地で揉めている者を見かけてしまった。一方が何やら言いつのっている様子で、喧嘩というにはもう片方が静かすぎる。メイン通りと違って開店前の小さな店ばかりが並ぶそこは暗く、人の顔など見えなかったが、喋り続ける方がもう一方の胸倉をつかむのはわかってしまった。そのまま立ち去るのも気が引ける。せめて良くないことを見過ごさなかったというすっきりした気持ちで新年を迎えたいと、荷物を提げたまま狭い通路へ踏み込み、「おい大丈夫か」と出した声は、何かをぶつけたような大きな音で遮られた。人間がひとり崩れ落ちる。それは理不尽に財布を要求するような言葉でもって五月蠅くしていた方の男で。スモーカーと同じく両手に大きな袋を提げたもう片方が振り返ると、猫のような金の目が路地に光った。
「……ロー先生?」
目が慣れていなかったうえ、白衣でなかったから認識するまでに時間を要した。向こうの方が早く気がついたらしく、倒れた男に向けていたのであろう苦々しい表情はあっという間に崩れ、「あ?あ――……」と気まずそうな声を出した。
ここを通ると近道なんだと男は歩き出した。意味深に内緒にしてくれと囁いたばかりの後ろ姿を追うと、何度か曲がった先に去年世話になったマンションが突然現れた。
「さっきのは、知っている奴なのか?」
「いや知らねぇ。親戚が事業をやっている関係で、時々声をかけられるんだ。顔をつないでくれっていうのがほとんどで、断ると逆上するのもほとんど」
あっけらかんと話す学校医は胸倉をつかんできた男を、空いていた長い足で退けたらしかった。いつもはその足に黒いスラックスを履いているが今日は細身のデニムだ。黄色いパーカーと紺色のスタジャンを合わせていて、いかにも休日然といったいで立ちは初めて見る。なんとなく腹の底が落ち着かない。さっき一服し損ねたせいかもしれない。袖をまくっているのは荷物が食い込むのを防ぐためだろうか。スモーカーのと違って有料のビニール袋は中身の重みで取っ手が細くよじれていた。学校では夏でも長袖の白衣であったし、何度か世話になった夕飯の時にも変わらぬ格好をしていたから、あれは先生なりに線を引いていたのだと知った。
「まだソラ好きなんだな。今日は留守番?」
エコバッグの柄を見た学校医が感心だという顔をする。
「ああ、冬休みは母親のところで正月をやるんだ。向こうは祖父母もいるからな、お年玉ももらえるだろうし」
「じゃあひとりなのか。三学期まで?」
そうだ、と返した声がいつも通りに出せていたか自信がなかった。去年、この学校医の助言で懇談会を機にほかの保護者と打ち解け、ベビーシッターを契約したり、遅い時間までやっている民間の児童会を見つけたりしてから、賑やかな日が増えていた。職場の人間以外と言葉を交わすことの少なかったスモーカーははじめひどく草臥れたが、慣れるものだ。学生からも、説明が詳しくなったとアンケートに書かれていたから、それは良い方向に働いたのだろう。おや子の生活に関わる人が増え、比例するように息子の体調は安定した。そんな一年を過ごしたからか、学生もいなくなった冬休み、がらんとした職場と、ひとりの自宅に味気なさを感じていた。
「それは寂しいな」
他人事のように言った学校医はそのまま自宅マンションを通り過ぎ、一つ進んだブロックで赤い自販機の前に立つと荷物を持ったままの手で器用にポケットから小銭入れを出した。のこのことついて行ったスモーカーに緑茶の短いペットボトルが差し出される。
「慰めてくれるってんなら、どこか入らねぇか、珈琲でも」
息子が調子を崩さなくなってから、学校医と会う機会はぐっと減っていた。もちろん、家になんてこともなくなった。
「贅沢言うなよ」
受け取る腕が残っていないとみると、男はペットボトルをそのままエコバッグに突っ込んできた。ずしりと加わる茶。飲み物は案外重い。
「ああそれと」
学校医は左腕の袋の中から、半透明のビニールに包まれた総菜のような物を取り出す。
「黄な粉食べられる?」
「ああ」
「和菓子屋の前で餅ついてて。子どもは体験もさせてくれるんだが、和菓子を買うとおまけでつけてくれるんだ。今日中に食べればやわらかいから」
それも勝手に荷物に足されてしまう。いい加減どこかに座って一服したい。不服は顔に出たのだろう、学校外だからか、白衣と一緒に立場を脱いだ男は軽やかに声を上げて笑った。
「保護者と珈琲飲んでたなんて、イマドキ見られたら面倒なんだよ」
「そうだな、悪い」
「でもそんなにしょげられると気が咎めるから、散歩ぐらいなら、付き合ってもいい」
「は?」
「買い物してる時にたまたま会ったら、冬休み中の家での様子とか話すだろ、普通」
だから今日帰ってその餅を食ったら、美味かったか明日また教えて。
その楽しそうな顔も初めて見るもの。恰好と相まって別人のような男の言葉はスモーカーに目眩らしき症状をつれてきた。いよいよニコチン切れだ。重い荷物を引きずるようにした帰り道、歩みに合わせてちゃぽちゃぽと緑茶が存在を主張していた。普段飲みつけないそれは、好む人間に言わせると甘いとも苦いとも。ひとりの部屋に帰ることを、いつの間にか考えなくなっていた。