薄汚い暖簾をくぐる羽目になったのは、いつものラーメン屋が閉めやがったからだ。奥さんが骨を折ったとかなんとかで、期限はわからないと綴られていた。月曜からツイていない。薄給の昼休み、一日あたり百円近くも余計に払うのは辛いが、事務所から五分とかからず昼飯にありつける店がここしかなかった。休憩は短い。焼いた鮭みたいな筋の入った暖簾がかかる店は、中華そばと書かれたプレートや引戸のサッシにとどまらず、店が入っているビル全体が動物の脂にまみれた臭いがする。空腹があっという間に気持ち悪さで満ちていくような。
作業着の小銭をポケットに突っ込んだ手で数えながら、暖簾を上げるかしばし迷う。コンビニに行くのは面倒だ、食べるものを選ぶ必要がある。だがすでに胸やけがしそうな臭いが全身に貼り付いている。朝から上がる一方の湿度にもうんざりしていた。
ふと目をそらす。ゴミ箱と野良猫だけの細い路地を挟んだ隣にはほとんど自分と背丈が変わらないほどの空き箱みたいなものが建っていた。ひびの入った引き戸は破れたカーテンで塞がれている。原付で通勤する自分は駅前のこの辺りに来ることがあまりない。商業ビルの立ち並ぶ駅前通りの裏側で、ファミリー向けのマンションに囲まれたそれは厚紙で作られているかのような建物だった。空き家か。持ち主がわからなくて壊せない家が増えているとか、聞いたことがある。足元の傾いた看板に「画廊」の文字。縁のない字面に何屋かと考える。絵が飾ってあるところか。
視線を感じて顔を上げると、空き箱の奥に高い木が茂った庭があり、その後ろに一軒家があった。二階のベランダがベランダというには広く張り出しており、手摺に男がもたれて煙草をふかしていた。こっちを見ている。その金色の目と合うと腹がぐうと鳴った。うっすら笑われたように見えて、すぐさま暖簾を跳ね上げて店に入る。なんでおれが気まずい思いをする必要があるんだ。布がこすれた手の甲がテカっていた。カウンター内のジジイが「端!」と耳が破れそうな声で怒鳴る。むせ返る獣臭に鼻が詰まりそうになったがどうしてか腹は減っていた。耳の遠い店主に、一つしかないメニューを怒鳴り返す。夏場ぐらい冷麺とかやってくれよ。馴染みの店主の顔が浮かぶ。この店のなにが嫌かって、年のせいか性格なのか耳が遠いせいか、とにかくジジイの声がデカいのと、皿を投げ渡すように置くので汁が零れることだった。べたつくお手拭きのビニールを開け机を拭いて渋々箸を割る。浮いた脂の黄金にさっきの男を思い出す。髪は黒かった。白いシャツから刺青がのぞいていた。腹がまた鳴る。ねじ切れそうな胃袋に大口で麺を啜ってやった。ボリュームはいつもの店とそう変わらないはずが、足りない気がして、備え付けの赤いもやしを沈めて汁まで飲んだ。替え玉をするには小銭が足りない。
玉のような汗をかきながら同じ暖簾をくぐって外へ出る。怖いもの見たさとはよく言ったものでやめときゃいいのに見てしまう。男はまだそこにいた。だがひとりでなくなっている。手摺に背中を預けるように向きを変えた男は、スケッチされていた。白髪混じりの長い髪をひとつに束ねた、ずいぶん歳上であろう男が、丸いすに腰かけて金目の姿を描いている。「画廊」の文字はまだ生きているのか。モデルとなった男の手に挟まれた煙草から煙があがっている。脂に沈んだ鼻ではその苦味は嗅ぎ取れない。よく見れば煙草よりもっと太い、なんだ、葉巻? 鉛筆を動かしていた男が立ち上がってスケッチブックを置いた。今度は盗み見と言われても仕方ないほどに見ていたおれは尻のポケットからスマートフォンを出した。開きっぱなしのソシャゲ画面にして顔を埋める。一歩路地へ、暗い方へ存在を消すように。
長髪の男は金目の青年の側へ寄ると両手でその肩をなぞった。白いシャツの上を、胸、腹、と撫で下ろす。絵なんか描く奴なんてのはだいたいが変態だろう。金目が断らないのをいいことに、長髪は腰回りを繰り返し撫で、そしてひざまずく。白いボトムに包まれた大腿を少し押し開いて、こけた頬を、青年の清潔な逸物が収まっているそこにすりよせた。
にゃあん。いつの間にか汚れた猫が足元にいた。裾をかじられている。二階の目線がこちらを向く気配を感じてぞっとする。スマホを凝視しながら足を動かした。食後の汗が冷えて肌着にしみるなか、さらりとした白いシャツに覆われた刺青が揺れて笑った気がした。腹が、また鳴る。休憩時間を十分すぎていた。
あくる日も、ベランダで青年は葉巻をふかしていた。室内のだれかと会話を交わしているようで、煙を吐く時だけ上を向いていた。その姿を不自然に見ないように中華そば屋へ足早に入る。鳴る腹をなだめて注文を怒鳴り、机にこぼれた汁を拭く。どんぶり一面に浮く脂の黄金。あの、目の中に、麺が沈んでいる。皿に口などついていないのに笑ったように見えた水面に箸を突き立て、大きな音を立てて啜った。年嵩の長髪は、金目の青年をこんな風に啜るのだろうか。汗が吹き出る。ぞぞぞぞという音に、してはいけないことをしているような気になる。どうしてこんなに思い出す。ただつぶれた画廊の、萎れた画家と青年。それだけ。
梅雨入りの遅い今年は曇り空続きだ。息苦しささえ感じさせる湿度に汗だくの体をすべらせると、まだ青年はベランダにいた。ビーカーみたいな容れ物に黄色の絵具をちゃぷちゃぷと揺らしながら、やはり葉巻をふかしていた。会話はまだ続いているらしい。部屋に向かってなにか話し、容器を傾けた。絵の具がこぼれる。すると開いたままの掃き出し窓から例の長髪が這い出てきて、床に広がる黄色溜まりに向かって四つん這いで舌を出した。絵具に似た色の目が、二つ揃ってそれを見ているのだとわかる。画家の口が開く。ぞぞぞ、音が聞こえた気がしてすぐにその場を逃げ出した。実際には何も聞こえないのに。会社に戻った時にはすでに腹が減っていた。
またあくる日は二人がそろってベランダに出て、青年はその姿を紙に描かれていた。絵を描く男は時折鉛筆を置いては金目にすり寄り体を撫でまわす。その姿にまた奇妙な飢餓感がわいて、黄金の脂を麺に絡めて啜る。店の獣臭さが気にならなくなるほど、あのベランダに気を取られていた。単に鼻が慣れただけかもしれないが。さらに翌日、また翌日になると机を拭くのも待てずに中華麺を貪るようになった。短い昼休み、たった三分で昼飯をかきこみ、だというのに遅れて会社に戻った。上司の嫌味は耳に残らない。腹が減る、見るたびに。金の目が溶けたスープを体に取り込む。
そうして七日が経った。日曜は休みだったのでジジイの怒鳴り声も聞いていなければ画廊も見ていなかった。週のはじめの昼休み、またあのベタベタの店の前に立っている。作業着の小銭をポケットの中で数える。今日は替え玉の分だけ枚数が多い。チャリチャリと指で遊びながら目線はもう隣へ向いていた。盗み見が習慣づいてしまっている。
梅雨入りには遅い雨が降り出しそうな暗い空だった。開いた窓、見えない室内から、どん、と物音がした。画廊の裏の一軒家はいつも静かだった。話し声もひそやかなのか、その音がこちらまで届いたことはない。葉巻の煙を吹く呼吸も、鉛筆の運びも。それが、物が倒れるような音がして、なにかが落ちるような音が続いた。模様替え? それとももめ事か。おかしくはない。あの青年は本当は画家のことを嫌がっていて、とうとう堪忍袋の緒が切れたのかもしれない。枯れた手がシャツの上から筋肉の曲線を撫でることを、その腹部に頬ずりすることを、心の中では許していなかったのかもしれない。思わず他に人通りがないか見回してしまう。だが辺りはしんと静まりかえり、路地の猫は逃げ去っている。そのうちに大きな音はやんで、ベランダに男が出て来た。見たことのない男だった。真っ白な髪に白い肌の巨躯。金目の青年よりもっと中年で、画家より若く見える。白いシャツにズボンといういでたちは、男そのものが大きなキャンバスのようだった。口に葉巻を二本、咥えていた。男はベランダの真ん中で葉巻を指にはさみ、なにかの道具でその先っぽを切り落とした。そして火を。葉巻はそうやって吸うらしい。いつもの青年よりずっと長い呼吸でゆっくりと煙を吸い、そして吐き出す。白い男が、白い煙にまみれた。
がちゃ、と床の喧噪をかきわけるような足取りで金目の青年が出てきた。絵具にまみれた手に筆をいくつか握っていた。裸足の足が色のある足跡をつけるのも気に留めず、青年は歩いて、白い男の白いシャツに線を描いた。何色と何色が混ざっているのかわからない。絵具の種類もわからない。時折黄や赤の筋が見える鈍い色と、ソシャゲの画面に出現する敵のようなヘドロ色と。手についたものも白いシャツになすりつける。何度も。白い大男は、筆先が顔に当たりそうな時だけ避けたが、あとは好きにさせていた。葉巻の煙はずっと白く、シャツは混乱の柄になる。青年にはなにか目指すかたちがあったのか、白い男の背中にも色を置くと、筆を離して捨てた。
「気はすんだのか」
白い男はそう言った。こちらにまではっきり聞こえる声だった。金目は笑っていた。溶けた脂が細く零れるようにもったりとしていた。そして二本の葉巻を奪い取ると、大きく吸って、空へ吐いた。取られた方の男は心の底から迷惑そうな顔をした。一口ぐらいいいじゃないか。そう思ったが、そうではないかもしれなかった。青年が男の口に葉巻を返す。そのままそこへ唇を近づけて、しかし大きな手の平で押し返されていた。金の目はますます嬉しそうに細くなった。わからない。あの白は別の画家か、それとも青年の方が画家だったのか。部屋の中から鉛筆が転がり出たが、青年のつま先がそれを蹴飛ばした。腹がぐううと叫び出したが、だれもこっちを向かなかった。代わりというように、表側の空き箱に置かれた看板が、ばたんと倒れた。
頭にぽつりと雨が落ちる。濡れる前にと店に入る。注文を怒鳴り、カウンターの端に座る。投げ置かれたどんぶり、こぼれる汁。一面に浮いた黄金。替え玉まで食べても空腹はおさまることなく、拭き忘れた机の汁まで啜った。明日はいつもの店に行ってみようと決意しながら。