財布を失くしたスモーカーの話

はじまりは、自動販売機の釣り銭が返ってこなかったことだった。40円ほどであったし、何度レバーを下げても何の反応もないので、そういう日もあるものだと諦めた。腕時計の針は止まっていた。そういえば業務前のアラームを聞いていない気がした。運が悪い。
次はコインロッカー。スモーカーが定期的に通っているジムのそれは鍵を開けるとコインが返ってくるシステムだったのだが戻らなかった。管理室に問い合わせ、管理がメーカーに問い合わせ、週末の夜なので対応が難しいとの返答を得る。そこまでで一時間以上を要した。仕事と運動後の疲労で一刻も早く帰宅したかったし、どうせまた来るのだから今日でなくとも構わないと引き上げた。バイクをとばして帰る途中、はねた小石がヘルメットのシールドに傷を作った。
次は身に覚えのない寄付だった。まだ宵の口だったというのに、休日で緩んでいたのか酩酊していたらしく、財布に入っていた紙幣から小銭から全部ひっつかんで道端の寄付箱に入れたらしかった。らしかった、というのは、現金が消えたことに気がついて、飲んだ店から家までのルートをローと二人でしらみつぶしにたどり、募金活動をしていた学生に顛末を聞いたからだ。黄色のTシャツで揃えたさわやかな男女が立ち並ぶところへ、強面と評される自分が声をかけていいものか躊躇っていたら、ローが腰を少し屈めて話しかけていた。そいつだって髭面の刺青なのに。手の模様を隠して普段より柔らかい表情を作ったローと、少し頬を赤らめて質問に答える大学生とを見比べて、スモーカーは咥えたままだった葉巻を噛んだ。
立て続けにおかしなことが起こるもんだと思いながら、スモーカーは炎天下に立ち続ける学生たちにジュースでもと紙幣を渡した。ありがとうございました、溌剌とした声が路上に響いた。
晴れない気分をどうにかしようと、久しぶりに雀荘で卓につけば大負けした。暴対課に籍を置いていた時によく通ったその店は、スモーカーが質の悪い輩をあらかた検挙したおかげでかなり良心的な商売をしている。だが負けは負けだ。同じ卓を囲んだのは過去何度か小さな悪行でスモーカーに取っ捕まったことがある爺さんで、手を叩いて大喜びした。

そして、財布を失くした。

「家に忘れたんじゃねぇのか」
ローの訝し気な視線が刺さる。だが確かに、財布は持っていた。二人で住むマンションを一歩出たところで尻のポケットを確かめるのは習慣だ。下まで降りてから気づくとまたエレベーターに乗らねばならないから、必ず、扉を閉めるタイミングで。警察官という職業柄、習慣にしていることはいくつもあるし、それは半分眠ったままでも手足が動くほど、体に染みついている行動だ。そしてスモーカーは、それまで財布を忘れたことがなかった。
「万が一ってことはあるだろ。自分が一番疑わしいなんてこと、よくある話だぞ」
そうなだめられて、映画を観るのはやめにした。言外に「おっさん」と聞こえた気がしたが拾う気にはならなかった。買いたいものがあるからと言ったローと別れてひとり自宅に戻ったものの、やはり財布はなかった。何かがおかしい気がしていた。しかし何もわからない。少ない自分の収納をひっくり返し、まさか出した服に入っていないかとクリーニング店に電話をかけたがなかった。釈然としないまま葉巻をふかしていたら、帰宅したローにカードを止めろと叱られた。スモーカーはクレジットカードも電子マネーもやらないが、一枚だけデビットカードを持っていた。生活安全課には配属されたことがない。ローの方がよほど詳しく、手ほどきされてキャッシュカードも止めた。
遺失届を出したことは職場であっという間に広がった。大勢の同僚が見ている前で提出したのだから当然といえる。休憩所で自販機の前に腰かけて紙コップの珈琲をすすっていると、同期のヒナが機嫌よさそうに寄ってきた。釣り銭は出た。珈琲は、ローに押し付けられた現金で買った。
揺れる桃色の髪が隣に座ると疲労度が増した。揶揄うつもりで来たのだろうが、あまりに様子がおかしかったのかもしれない。ヒナは何か言おうとして飲み込み、奢るからといつもの居酒屋を予約した。
飲んで帰ると連絡したら、ローがおれも行くと言って、その夜三人で店に入った。
「何があったの?ヒナ心配」
突き出しのタコを箸でつまんだヒナは、署内一の美人と言われるその顔に哀れみを浮かべていた。くたびれている自覚はある。スモーカーは煙と一緒に深く息を吐き出した。そういえば葉巻の在庫を確認していない。しばらく買えないことに思い当たる。吸うペースを落とした方がいいかもしれない。
いつもなら、ふかしすぎだと小言を垂れるローが、今は何も言わなかった。
「ひと月前ぐらいか、お前とここで飲んだ次の日だな、釣りが出なかった」
「釣り?」
スモーカーを挟んでカウンターに座った二人が目を丸くする。
「外で珈琲を買ったときだ。出なかったんだよ」
「それだけ?」
「それだけじゃねぇ。ジムのロッカーも小銭を返して寄越さなかったし、酔っぱらって有り金全部寄付してた」
「寄付ですって!」
ヒナは噴き出したし、ローはあの時かとやはり噴き出した。腕時計は電池切れでなく壊れていたし、シールドは交換だ。笑い事ではない。わざとらしく咳払いをすると、両隣の涙目がこちらを向く。どうもこいつらは変なところで気が合っていけねぇ。
「珍しく記憶がねェんだ。相当飲んでたらしい。あの日のヒナみてェに」
そう、はじまりの前日はヒナが酔い潰れたのだ。それ自体は珍しいことではない。この女の酒癖の悪さは署内随一で、誰も一緒に行きたがらないから、酒と愚痴に付き合わされるのはたいていスモーカーだった。
ヒナが日ごろ履いている、アスファルトに穴でも開けるのかと思うようなヒールのパンプスはスモーカーが持ち、肩に腕をまわしたピンクのゾンビを引きずって歩いた。ひとつの山場を越えた打ち上げだったものだから、スモーカーだって酔っていた。転げないよう気を遣ってやったのに、正体をなくしたヒナはこっちが近道だと言い張って、そういえば小さな神社を通った。
「もしかしてお前じゃねェか……」
数段の細い階段を上った。人より図体の大きな男と押し合いへし合いしながら上下に揺れたヒナは、二人並んで通るのがやっとの鳥居をくぐったところで、止める間もなく嘔吐した。神社の敷地で。神も仏も信じるものを持たないスモーカーだって、罰当たりだなというくらいの気持ちはある。
「それに関してはヒナ反省。手間をかけたことは謝罪するわ」
嘘だ。ヒナは泥酔すると綺麗さっぱり記憶を失くす。スモーカー相手だからまだいいものの、恥も自責の念もないから毎度同じようなことをやる。
脳裏に夜闇の酒臭い出来事がよみがえる。古めかしい神社は、日ごろ無人なのであろう様相だったが、さすがにそこへ吐しゃ物をまき散らすのはまずいというくらいの理性は残っていた。そして自分はどうしたかというと、受け止めたのだ。グローブも脱いでいた両手で。
左へ目をやるとローは完全に引いていた。医者の男は潔癖症の気をのぞかせることがある。医者でなくたって、他人のゲロを手で受けたと聞けば皆同じ反応をするだろう。いらぬジェスチャーをしてしまったその手は、境内の隅のトイレで洗った。石鹸の備えもないような、四隅に蜘蛛の巣が張った木造の便所で、これでもかと水で流した。
右を見るとさすがのヒナも神妙な顔つきになっていた。長い付き合いになる同僚の、もらいたくもない初めてを、また勝手に押し付けられてしまった。
爪の塗られた長い指が、それに似合った細い煙草を挟んで火をつける。少しは反省するだろうか。この場は遠慮なく奢られておこうとスモーカーもまた煙を口いっぱいに吸い込んだ。
「貧乏神を祀ってるところらしいぞ」
ローがカウンターの端を指す。例の神社の方角だ。ひとしきり笑って、百年の恋も冷めるほどに呆れて、こいつも今夜は忙しかろう。
「憑かれたんじゃねぇの」
いい年のおとな二人に向けられた半眼を、可愛いなと思った。

しばらく俺が養ってやるから。
パートナーがオトコマエで助かった。スモーカーがシャワーを浴びている間、どこかに電話をかけていたローは、淹れた紅茶をテーブルに置いて、隣に腰を落ち着けた。十も年下の男の、少しばかり得意げな様子は気分を上げてくれる。
スモーカーは珈琲派だが、ローは紅茶や緑茶を好む。隣に座ってカップに息を吹きかける横顔を眺める。気に入りのマグは、かぱりと開けた口から牙を見せている白熊が写真のようなタッチでプリントされた代物で、本人は可愛いだろと目を細めていたが、スモーカーにはとんとわからない。
「詳しい奴に聞いてみたんだが」
「あ?」
「貧乏神ってぇのは、女の神様らしい」
前言撤回。
単に面白がっているだけだった。思い当たると途端に小憎らしく見える。スモーカーはつい葉巻を噛みしめようとして、風呂上がりでまだ何も咥えていないことに気づく。不本意だがあとは寝るだけだ、今日はもう終いにしなければ。
ヒナはたいして酔うこともできず帰路についた。ノった日は列島縦断などといって、メニューにある日本酒を北から順に鹿児島まで全部飲んでいくような大酒家だが、今日は宮城あたりで止まっていた。
「本気でそんなもののせいだと思ってんのか」
「だから男のお前の方にひっついて来ちまったんじゃねぇかって」
「おれぁ信じてねェぞ」
「それは賢明だな。信じる者は足元をすくわれる。だがスられたんなら気がつくだろうし、お前が持ち物を失くすようなタイプじゃないっていうことくらい、おれもわかってる。だからな、これを、どう説明するかだ」
「祓えってのか」
「黒檻屋は、ゲロったことを謝りに行くと言っていた」
日ごろ信仰心もないくせに、こういう時だけ柏手を打つとは都合のいい。スモーカーは息を吐きながら天井を仰いだ。煙がほしい。ため息では物足りない。大口を開けたまま固まってしまったスモーカーの姿はローのツボに刺さったようだった。本日二度目だ。
「味噌でも焼けってさ」
腹を抱えて笑うローに、答える気力もなかった。
「貧乏神の好物だそうだ」
もしかすると、この男は暇なんだろうか。珍しいこともあるものだ。不規則なうえ激務であるローは常に隈が絶えない。三度の飯すらおろそかにする。だが今日は、急だったのにも関わらず、わざわざ来たのだ。
スモーカーはもう深く考えるのをやめ、連れられるまま台所に立った。人を揶揄うのはそんなにおもしろいかと、嫌味のひとつでも言ってやりたかったが、人間、気落ちしすぎると何も言えなくなるらしい。包丁を持たされたスモーカーは、指示された通りに白ネギを刻み、ごま油を熱したフライパンで味噌と炒めた。香ばしい匂いが部屋に広がると、ローが冷蔵庫から日本酒を出してきた。ヒナが持たせてくれた東北の酒だ。酒のせいで散々な目にあったのに懲りないなとも思うが、今日はゲロのおかげで進まなかった。大きなスプーンで焼けた味噌をすくって舐め、ガラスの猪口で日本酒を煽る。少し焦げた香りとそれはよく合った。
「美味いな」
「そうだな。まぁ、これで祓えるわけじゃねぇけどな」
よくよく考えれば、好物なんて作ればますます貧乏神とやらに居着かれてしまうではないか。どうやら小腹の空いたローに肴を作らされただけだとわかったが、浮かれた顔を見ているとどうでもよくなった。美味いものは荒れた心を慰めてくれる。

翌日は部下に仕事を休まされた。件の失態を申し訳なく思ったヒナが手を回したらしかった。これが平日ならば銀行に行くこともできたのに、ドジの抜けない部下はカレンダーを碌に見ていなかったらしい。あいつも大概なら働きすぎだ。一度止めたカードをまた使えるようにするには手間がかかると聞いた。またどこかで有休を取ることになるだろう。
あいにくの土曜日、手元に金がないので出かける気にもならず、かといって好きなだけ葉巻をふかすわけにもいかず、ローが撮り溜めていたドラマや映画を眺めて過ごした。
夕方、日勤から戻ったローは鼻歌なんか歌っていた。何かいいことでもあったのか。
「仏教だと黒闇天っていうんだけどな」
明るい声で滑り出した話題にスモーカーの気分は地の底まで沈んだ。おれの分の幸運を持ってったんじゃねぇだろうなと恨みがましい目を向けてしまう。おかしなことが起こり始めたあたりから、そういえばずっとローの機嫌はよかった。
膝に乗り上げた男が犬にでもするみたいに、スモーカーの後頭部を撫でる。
「そいつには姉様がいて、繁栄の神様なんだと」
「そんなにおれを信心深い人間にしてェのか」
「まぁ聞け。悪いことばっかりだからって黒闇天を追い出すと、姉の方も出てっちまうらしい」
スモーカーはもうカミサマの話はうんざりだった。人生にはいいことも悪いこともあると割り切れるくらいには生きている。財布はまた買えばいい。窓口に行くことさえできれば、引き出すものはあるのだから。
ローの指はずっと頭皮をくすぐっていた。
「そんな顔するなよ。先に結論を言うと、都合よく福ばっかり来るわけねぇですよっていう有難い教えなんだが。姉妹一緒に置いてやって、ちゃんと言うことを聞いてやれば、すげぇいいことが起こるらしい」
フフンと顎を引き上げたローがポケットを探る。片手は白髪を撫でまわしたまま。
じゃらりと重い音を立ててスモーカーの鼻先にぶら下げられたのは、銀の時計だった。黒い盤面を白っぽい針が滑るように動いている。頑丈そうなベルトが光って、その横でローの目が、同じくらい眩しく黄金色に瞬いた。
「お前が身に着けるモンなんて、時計ぐらいしかないからな。ちょっと気の毒だったけど、おれにとっちゃ、ある意味ラッキーだった」
「今日はおれの誕生日だったか」
「誕生日じゃねぇな」
「お前は」
「おれも誕生日じゃねぇよ。ふふ、スモーカーの驚いた顔なんて最高だな」
ローの双眸が三日月の形に緩む。もしかしたら、あのマグカップの熊みたいになっているのだろうかとスモーカーは思った。てっきりあれは獲物に噛みつこうとするときの顔だと思っていたが、驚いた表情だったのだろうか。熊が驚くなんてことがあるのだろうか。
「お前が焼いた味噌は美味かったし、黒檻の酒もいいやつだったし、カミサマのお眼鏡にかなったんじゃねぇの」
動かないスモーカーの太い手首にローが時計を通してくれる。心地よい重みがかかる。身に着けるものに付属している名前や知名度など気にしたこともないが、きっといいものなんだろう。
今度こそローは得意げだった。してやられた。スモーカーは完敗だった。万歳したい気分だった。だがその両手を目の前の男の背にまわした。その方が真摯な態度だと思ったからだった。
「お礼を言いに行かなきゃいけねエな」
「おれにじゃなくて?」
「お前にもだ、ロー。大事に使わせてもらう」
しおらしく礼を言うと、ローはまた声を上げて笑った。失くすなよ、と意地の悪いことを言う男と、一緒に財布を買いに行こうとスモーカーは思った。