飾りは必要ない

トラファルガー・ローは首を傾げていた。どうも当初の目論見とはまったく反対の方へと事が運んでいる。かの同盟時代を彷彿とさせる転がり具合だが、やや違う。もっと、抗う暇のない、気づけば名もなき海流に乗ってしまっていた時のような。そんなことはことグランドラインにおいて、あるまじき事態だが。
視界を占める重い紅のドレープカーテンに、長年隣を歩いて来た副官の顔が浮かび上がる。
「キャプテンは想定外の事態に弱いんですよ」
勘違いしないでくださいね、悪口じゃないんですよ。そういうところをポロっと見せてもらえると安心するっていうか、俺たちのキャプテンって完璧じゃないからこそますます好きが深まるっていうか、もちろん完璧でも好きに決まってるんですけどね……。放っておくとフェードアウトするどころか今にも布地から飛び出してきそうな己の回想をローは片手で払った。想定外の事態に弱いとは、医療に携わる者としてまずいのではないだろうか。オペ室においてのわが身の行動を振り返ってみる。初めて魚人族の胸を開けたときはさすがに驚いたが、手術そのものに危ぶまれるようなところはなかったはずだ。想定外に出血量が増えた症例もあったがリカバリーは完璧だった。下唇にだんだん力が入る。想定外の事態に弱いとは。
「ローさん!終わりましたか」
過去の症例を紐解き始めたばかりだというのに、暗く狭い空間のカーテンが音を立てて開かれる。
「さすがのスタイルです。似合ってますよ」
顔からはみ出さんばかりの満面の笑みで褒め称えるのはかつて「英雄」と称された海軍の青年。試着室とは違って明るい店内の光を反射する白い袖がローに向かって伸ばされる。
「僕がタイを選んでも?」
背後に控えた店員がテンポよく渡す色とりどりのネクタイを次々とローの襟元に当ててみる顔は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌だ。普段にはない硬い襟の感触が顎下にくすぐったく、目線を向けると自分のクローゼットにはないスリーピーススーツ。こんなにかっちりと着込む予定ではなかった。こちとらその日暮らしの海賊稼業、医療に従事する時でさえ、首元にゆとりのあるTシャツやパーカーだ。本当なら、それすら脱ぎ捨てて鍛え上げた体を惜しげもなくさらし、お気に入りの下着一枚にリボンの一本でも巻いてこの男と過ごしているはずだった。誕生日だというのに何度問い詰めても「ほしいものは何もない」と宣う将校さまを揶揄う意味も込めて、娼婦の真似事のようなことを思いついたのは、まぁ、いつもの、気まぐれだが。デニムのボタンをはずす前に「ローさんをいただけるというのなら、ちょっとお願いしたいことがあるんですけど」とむき出しの肩にかけられた青年の上着は裾が短かくて。「風邪でもひいたらいけません」との言葉に「腹が冷えるな」と苦笑いするしかなかった。
海軍御用達だという店であれよあれよと海賊旗入りの服を剥かれ、試着室に押し込められること三度。ようやくこれだと決めたらしいコビーは、ローの頭からつま先までを何度も眺めた。
「自分でできる」
置かれた状況をようやく飲み込めてきたローが二色で迷っているらしいネクタイの一本を、無理矢理引き寄せる。
「どうしても嫌なら諦めますが……僕にやらせてほしいです。どうしてもだめですか?」
「クソっ、いいけどだ」
誕生日であることを強調されてしまえばおとなしくするほかない。丁寧な手つきで上等なネクタイを締められ、試着室から連れ出された。革靴もコビーのチョイスだ。
「一度でいいから、僕の選んだものを身に着けたローさんを見てみたかったんです」
いつもの正義をまとった青年の隣で鏡の前に立たされた姿は、黒に近いグレーのシャツを濃紺のベストとスラックスが覆うスタイルで、金の糸で模様の入れられたネクタイが、ローの母艦や、その窓から見る深海を思い起こさせる。カフスの縁取りにも金に近い黄色があしらわれており、海賊であるのに、それも含めてまるごと肯定されているような装いに見えて、踵が浮くような心地にローは無理矢理片頬を上げた。
「それで?お誕生日会でもやろうってのか?」
「それはいいですね!ケーキを買いに行きましょう」
この男に皮肉や煽り文句が通じたことなど一度もない。コビーは目を輝かせてローの手を取った。ジャケットを店員から受け取ると、手を引いたまま店を飛び出す。海軍本部を擁するこの街は、取り立てて何もない普通の日だ。祭りがあるわけでなし、海軍の式典があるわけでなし、労働者は日々と同じように朝から起きて店や工場で働き、主婦は洗濯や買い出しをしている。就学にはまだ年の満たない子どもたちが、噴水のある公園で靴を脱ぎ、日課の散歩途中で足を止めた老人がそれを見守っている。ふたりは目立って仕方がない。だというのにひとつも気にすることなく、コビーの足は老人の散歩コースを横切った。石畳をヒールが鳴らして、時折道行く人の視線を集める。海賊の身は明日どこの新聞に載ろうとも気にする必要はないが、青年は大丈夫なのだろうか。
「歩くのが嫌だったらすみません。せっかくなので、たまには一緒に歩きたくて」
暗にいつものローの横着を咎めている、というわけではないだろう。素直な申し出は嬉しいが、あちこちから感じる視線にはため息しか出ない。
「いいのか、将校サマが海賊なんかと日中堂々と連れ立って」
どう見ても捕縛しているようには見えないと思う。親し気だ。繋いだままの手を、青年は隠そうともしない。立ち止まりもせず、周りに一瞥をくれることもせず、顔だけがこちらを振り返る。
「意地悪なことを言うと、僕はローさんの困った顔が好きなんですよね」
「は、はァ!?」
思わず振りほどきそうになった手は思いのほか強く握られていてできなかった。
「僕の身を案じてくれていたり、隣にいるのは居心地が悪そうだったり、海賊なのに、そんなことをああでもないこうでもないと困った顔で思案するローさん、可愛くて」
「はっ、若いのに、歪んでるな」
わかっていても挑発するようになってしまうのは、顔からにじみ出る羞恥を隠したいからだ。コビーはますます嬉しそうにするばかりで、いたたまれない。
「そうしている間はずっと僕のことを考えているじゃないですか。もちろん、僕はローさんが難しい手術のことを考えているときも、少しよからぬ企みをしているときも、どんな顔をしていても心惹かれますが、誕生日に『おれを一日やってもいい』なんてせっかくの贈り物ですから、ずっと僕のことを考えていてもらおうかなって」
この青年よりはるか前に英雄と呼ばれた男は、軍艦を日夜殴って拳を鍛えたとかいう。海賊王の祖父だというのもうなずける話だ。目の前の桃色もそれに倣って鍛錬を重ね、やわらかな人となりからは想像もできないような破壊力を得て岩をも砕く男になった。つまり、繋がれたままの手がローにはほどけない。ニコニコと爽やかな雰囲気で情熱的なことをさらりと述べるその間、時々指が痛むほどの力で握られていた。若き英雄は人気者だ。人格者で、誰にでも優しく、世界を広く見渡し、強き者にも怯まず、弱き者の味方。だが人間は誰しもがいろんな面を持っている。コビーも例にもれず。多感な少年時代に海賊船に乗せられた男は一方でおかしな倫理観を隠している。それは好意を寄せる相手に、牙をむく。
それを知っているのが自分だという事実にわずか心拍数を上げてしまう心臓は、惚れた腫れたなどという甘酸っぱさに浸っているというよりは、絡め取られる恐怖を前に足をすくませているに近い。愛おしいと思う一方で、息苦しい。
「ローさん?」
なにもかも、八つも年下の男の思惑通り。下着で挑む瞬間などよりずっと前、生誕の日に何か起こしたいと思ったその時からこの青年のことでローの頭はいっぱいだ。
「嬉しいです。ずっと僕のことを考えてくれてるんですね」
ひとつの反論もできない自分は男の望む顔をしていることだろう。癪だというのに、表情筋は取り繕うことすらできない。

連れて行かれた先はケーキ屋ではなくカフェだった。リゾートホテルの一階。手前がビュッフェになっていて、奥まったテーブルでは注文も取ってくれるらしい。ビュッフェに並ぶケーキのラインナップをひととおり目で追う姿は慣れていた。職場の女性陣に時々連れて来られる姿が容易に想像できる。
果物は大丈夫でしたよね、と一言置いて、コビーはメニューも見ずにさっさと注文を済ませてしまった。まぁ誕生日なのだし、ケーキの選択権は主役にある。ようやく離された手は指先がじんと痺れて、笑顔の裏に潜む怪力に舌を鳴らした。ほどよく沈むソファに深く腰掛けるとやっと体の力が抜ける。堅苦しいものをゆるめようとネクタイに指をかけると、同じように座ったコビーに止められた。
「息苦しくてかなわねぇ」
「どうしても嫌なら仕方ないんですけど、まだ、そのままで着ていてもらえたら嬉しいです。ローさん、だめでしょうか」
本日二度目の「いいけどだ」を叩きつけたローは天井に大きな息を吐いた。クソは二つ付けてやった。ありがとうございます、と安堵した青年の前にケーキが運ばれてくる。白いクリームに、さくらんぼのコンポート、大胆にカットされたメロンは二色。誕生日と伝えたのか、金の飾りが差してある。甘いものはローも好きだ。つやつやとした透明に包まれ瑞々しさを失わない旬の赤。緑の果肉はきりっと見えて、オレンジ色のとろけそうな方を引き立てている。半分ずつにしましょうと二つの皿を真ん中に並べ、コビーはテーブルの上に乗り出した。
「ケーキを食べて、その後は散歩でもしましょう。日が暮れるまで。それからです。せっかく僕の手で包装したので、僕がほどきます。贈り物、なんですよね」
どんな面をしてこの男は「ほしいものはない」と言っていたのだろうか。冷たい汗が背中を下りてシャツに染みた。フォークの隣に並べられた鍵を取って、行儀悪くケーキの飾りを引っかける。リボンは必要ないだろう。ほどくものが、他にたくさんありすぎて。