秋「お月見」
校門は半分閉まっていて、真っ黒い壁のような校舎が昼とは違う顔をしてそびえ立っていた。もっとも、昼の小学校に来ることなどめったにないのでそれがどんな顔をして子どもたちを見守るのかは想像の域を出ない。スモーカーは車を降りて職員室に目をやる。午後七時。近頃はどこも働き方改革だとかで、教員も遅くまでいてはいけないらしい。スモーカーの職場とてそれはそうなのだが。人の気配の薄くなった部屋はなお煌々と蛍光灯がついているが、スモーカーの目的はそこでなかった。
今日は間に合った。安堵と少しばかりの残念な気持ちを抱えながら保健室へ急ぐ。電話連絡を受けたのはもう四時間ほど前になるか。扉にはめ込まれた細長いすりガラスから見える明かりを頼りに、小さくノックをした。
「どうぞ」
「すまない、遅くなった」
「おとうさん!」
いつでも帰れるようにとランドセルを背負って待っていた息子がぱっと顔を明るくした。
「大丈夫か、熱は」
「熱は下がっている。お腹の痛みも今はないそうだが腹部は冷やさない方がいい」
こちらも帰り支度のできている学校医のトラファルガー・ローが簡潔に状態を説明してくれる。スモーカーは胸をなでおろした。真ん中の学年になり夏休みがあけてから、息子は何かと体調を崩し保健室の世話になるようになった。春から年の割に早く准教授になったスモーカーは何かと忙しく、迎えに来るのがいつも遅くなる。時を同じくして妻に出て行かれてから、いまだ生活も落ち着いているとはいえず、子どもの心身に負担をかけている。
「よかった。すまん」
「今日うどんがいい」
「わかった。蒲鉾は」
「入れる。ネギいらない」
スラックスに子どもが頬を寄せるのを、名前を読んで頭を撫でた。帰りにスーパーに寄れば、おやつもねだられることになるだろう。
ドア横のフックから鍵を取った学校医が退室を促す。
「先生、今日もありがとう」
「間に合ってよかったな」
惜しむ気持ちが顔に滲み出たのは親子そろってだっただろう。学校医は少しだけ笑って子どもの頭をひと撫でし、保健室に鍵をかけた。
どうしても迎えが間に合わなかった夜、先生が子どもを自宅へ連れ帰って待たせてくれたことがあった。電話で伝えられた住所を訪ねていくと、本当はだめなんだが、と前置きしたうえで、体調の悪い児童を一人で帰らせるわけにはいかないし、かといってあまりに遅くまで電気をつけていると、近所からの苦情に用務員が対応せねばらならないから、と棘を含んだ物言いとともに、小腹を満たした子どもを引き渡された。「先生のおにぎり美味しかった」とわずかに頬を紅潮させたわが子を見て、ひとり自宅で待たせるには心許なく、かといって頼れる父母も自分にはもうおらず、正直途方に暮れそうになっていたスモーカーは情けなくも玄関先で膝をついてしまった。
ロー先生――子どもがそう呼んでいる――はまるく目を見開いて、上へ横へ彷徨わせてから「米を炊いてしまったから、食べるか」と招き入れてくれた。満月のような、何かが棲んでいるような眼と、シンプルな白米と味噌汁にあの日救われてしまった。
あれから二度、同じようにロー先生が子を預かってくれたことがあった。「みんなには内緒」という言葉に、父子ともに魔法にかかってしまったようだった。
職員室の前で挨拶をした別れ際、一枚の紙を渡された。土曜参観と書かれている。
「それ、週末だから、地域の人なんかも来校する。授業のあとにクラスごと懇談があるから、できれば出席して、顔のわかる大人を増やすといい」
元気なときは、おれ以外に頼れるところがあった方がいいからと言う男の顔とプリントとを交互に見てしまう。そうか、それが正しい在り方だ。他の保護者と交流し、知った顔を増やす。子どもの同級生の親をいくらか知っておけと、同じ大学に勤める子育て中の女性職員にも似たようなことを言われたと思い出す。
「民間のシッターもあるから、これも登録を検討しろ。留守の間、自宅で子どもをみてくれる。保育士の資格を持っている者もいるからよく読んで。病気の時に派遣を頼めるサービスもある、調べろ。あんたは仕事をがんばっていると自負しているかもしれないが、それは子育てとは同時進行の別ベクトルだ。何度かその子の症状を診て、おそらく内臓疾患からきているわけではなさそうだから、もっとあんたやまわりの大人のケアが必要だ」
すっかり甘えてしまっていた。この男は学校医で、家族ではないし、ましてや子どもを預かるプロでもない。ほんの少しだけ親切で、ひとりぼっちの子を放っておけない、面倒見の良い医師なだけ。一人の親と一人の子どもだけになって、ぽっかりと開いてしまった穴を、自分だけが勝手に埋めようとしていたと思い知らされる。
「おとうさん」
不安げに手を取ってきた小さな手を握り返す。
「具合の悪いときは、おれがちゃんと診るから。だからあんたももう少し、踏ん張りどころを変えてがんばってみろ」
調査票に書いたはずだから、家庭の事情は知っているのだろう。スモーカーは深く頭を下げた。
助手席に座ってベルトを締めた子どもが突然「ごめんなさい」と小さくすすり泣いた。罪悪感に胸を絞られながら「おれの方こそごめんな」と頭を撫でる。子どもは首を横に振った。
「友だちに言っちゃったんだ、先生の家に行ったことあるって。約束やぶってごめんなさい。ずるいって、友だちが先生に。だからでしょ」
「お前のせいじゃねぇ。とうさんが悪い。先生に甘えちまってた」
フロントガラスの上の方に、丸い月が見えていた。来たときには慌てていて気がつかなかった、ひとつの雲もかからない張り裂けそうな黄金色。
まずは、土曜の休みを確保しよう。それからシッター制度。この子と一緒に面談して、合う人間をちゃんと見極める。懇談にも出て、挨拶をしよう。担任の先生にもいつも迷惑をかけて申し訳ないと思っていることを伝える。助けてくれる人は多い方がいい。朝持たせたハンカチをポシェットから出して、顔を拭いてやった。もう一度頭を撫で、悪かったと。
背を向けていた運転席の窓をこんこんと叩かれ、用務員かと振り返ると、学校医がレジ袋を持ってのぞいていた。
「給食に出た団子を食べられなかったから、給食先生が置いておいてくれたんだ。忘れていた。食べる前に少しあたためろ」
開けた窓からずいと渡され受け取ると、戻っていく手が一度だけ、スモーカーの前髪を撫でた。
「何かあれば相談に乗るから」
子どもの頭にしていたのと同じことをされたと、気づくのに時間がかかった。さぞ間抜けな顔が照らされていただろう。目の前に二つ並んだ満月に。
「悪い。大きな男がしょげてるのは、親代わりを思い出して放っておけないんだ。家に入れたおれも悪かった。おれは親がいなくて、大変なことも多かったんだが、おとうさん一人でもいてくれるなら、心強いな」
つい、とずらされた目線は子どもへ。赤くなった鼻をすすってへらりと笑った子と、心なしか頬が熱い気がする自分と。二人そろってまた魔法でもかけられたように団子の袋を握ったまま、今度こそ用務員に追い出されるまでしばらく動けなかった。